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キリスト教高負荷(Christianity Overload)

かねてから神に活躍の場を与えて欲しいと祈っていた。幸いにも今は社会に貢献する機会を神に与えられている。 一方で ニーチェ Ueber Menschの思想や ラスコーリニコフ の考え方とは相容れないから中堅ぐらいの貢献を任されていると思う。   「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」( ヤコブ 4:7)   他人と比較しているとそこで止まる。あなたの周りにいる人がある分野において優れた人間である確率は 統計学 的に少ない。あるとすればそれはあなたがそのレベルに達した後の話である。一方でネット上のトッププレイヤーと自分を比べることは最も愚かなことである。鬱を誘発する行為であり、さらにはモチベーションが重要である鍛錬の場においてそれを奪う行為に他ならない。 自分と自分を比較していると気付けば他の人を ごぼう 抜きしている。 競争的なゲームの腕前でも、英語の実力でも、プログラミングでも同じことが起きた。 自分を昨日よりより良い存在にしようとしてそれを継続することで、気づけば平均を遥かに上回る実力を得ている。私の弱点は、一方で、topに食い込めないことである。ゲームでも中堅止まり、英語力はかなり上位に食い込んだがまだまだ上を見ればきりがないし、英語の筆記でうなるようなスコアを取れるわけでもない。上位層としてそこそこできるの域を出たことがない。   思えば人は自分の可能性を最大化する義務があるように思える。 能力がなくとも、人のためと思って一生懸命に働く人がいる中で、それを達成する力のある人が自堕落な生活を送っているのは聖書が示す通り、罪であるように確かに思える。   故に私は自分の能力を有効に使って人類に多大な貢献をしたい。 そう思いながらも、自分のやっていることに疑問を感じる側面もある。 たとえば、今私ができるのは英語や日本語で情報を発信して人々を啓蒙するか、プログラミングで何か小規模なことをする、または投資行動を取るくらいである。 ブログに関しては規模の拡大性があり、一見よさそうではあるが、あまりにも人が来てくれないため、微妙と言わざるを得ない。プログラミングに関しては、自分の寝ている間も動いていろいろな人の役に経つプログラムを開発する潜在能力はあるものの、現状やってることの規模が小さい。投資行動は規模の拡大性があるが、資金も経験も十分