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ソーラーパネルについて  

  ・ ソーラーパネル が普及されるほど電気料金が安くなり、電気を使うことが良いことだという風潮になる  野澤 哲生 (2018) 「到来!蓄電池社会 シンギュラリティは時間の問題」,『 日経エレクトロニクス 』,2018年7月号,P.22, 日経BP 社. この記事は、 再生可能エネルギー と大容量蓄電池の大量導入によって電力が定額でしかも激安、事実上の使い放題になる時代が現実化しようとしているという趣旨である。 「採掘してきた燃料をその時必要な分だけ燃焼させてエネルギーとして使う」という点において、人々はエネルギーに関して数十万年前と変わっていないのであった。 筆者によれば、 ソーラーパネル には2つの問題点があった。一つには出力変動を制御できないこと、その不安定さを相殺するために、結局は火力発電システムからほとんど脱却することができなかったのである。もう一つは、余剰の発電が技術的に許されなかったこと。その場で必要な分だけしか発電でいないのなら、これまでとあまり変わりはない。 記事によれば、これら二つの問題は大容量蓄電池の登場によって同時に解決される。 電力を大量生産して、余剰な分を低コストで貯めることが可能になれば、電力自体の コモディティ化 が起き、発電=燃料の消費という図式も消えるため、電力は使えば使う程安くなり、「電力の消費は美徳だ」という価値観が生まれる。これをソーラーシンギュラリティまたは、バッテリーシンギュラリティと呼ぶのだという。     我々の生活は地下資源を消費することで成り立っており、地下資源の埋蔵量が有限であることを考えると人間がずっと存続するためには、未来のある時点で、使用するエネルギーを持続可能なものに転換する必要がある。代表的な持続可能エネルギーは複数あるが、私はその中でも、ソーラーエネルギーについて興味を持ったのでそれについて論述する。 メディアや周囲の意見を見聞きする限り、 ソーラーパネル について好意的なものが比較的少ないように感じられた。その原因をよく考えると、確かに記事に書かれた二つのおおきな問題点に最終的に行きつくことが確認される。それに加えて私は ソーラーパネル を廃棄するときの環境汚染も問題になりえると考えたが、これは石炭や 原子力 、また他の方法によってエネルギーを得るときに生じる環境汚染の質・量と比較して考える必

エネルギーとか?

一昨日歩いていたら ハイブリッド車 のトラックを見かけて閃いてしまった   ハイブリッド車 はガソリンと、水素や太陽光エネルギーなどの持続可能エネルギーを半々で使うものだと思っていた。そのため ハイブリッド車 こそ持続可能エネルギー産業が苦しんでいる証拠でもあると思った。つまり持続可能エネルギー産業の目標は地下資源エネルギー(石油など)よりもクリーンエネルギーが安くなることであるが、その目標が達成されていないために、環境に配慮したい会社、また環境に優しいことをアピールしたい会社の使う車の燃料に割高で半分混ぜてもらっているように見えたのだ。   この考えに関して私は二つの点で間違っていた、一つにはまず ハイブリッド車 が思っていたものと少し違うこと。 ハイブリッド車 はエンジンとモーターを両方使っていればおそらくなんでもそう呼べる。またその構造でもガソリンのみを使うものもある。 また、ガソリンと充電した電気を使い分けるタイプのものがあるが、充電するための電気は現在ではまだ多くが 化石燃料 から発電されたものであり、 ハイブリッド車 はそのエネルギー効率の良さによって環境に優しいものであるものの、環境維持に対して負の効果を持つことに変わりはない。 一方で充電して使う電気を持続可能エネルギー(太陽光や風力など)に変えれば、さらに環境に優しくなって良いと思うし、私が想定していた ハイブリッド車 の姿は紛れもなくそれであった。 2つ目に、経済学的に考えて持続可能エネルギーがガソリンよりも安くなることはなく両者は同じ値段になること。持続可能エネルギーがガソリンよりも安くなった場合、誰もがそちらを使うようになる一方、その供給には限りがあるので価格がガソリンと同じになるまで上昇し続けるはずである。しかしながら、取り出せる太陽エネルギーが人間の使うエネルギーを全てカバーするのならばその限りではない。実際、バッテリーの蓄電機能の イノベーション が起これば電力が使い放題の時代が来るとする記事を読んだことがあり、ちょうどその記事について学生の時にレポートを書いたのでそれを後で手直ししてアップロードする。   今後、 ハイブリッド車 ではなく電気自動車をさらに普及させ、それらが使うエネルギーを全てクリーンなエネルギーで賄い、さらに運転は自動とくればそれほど素晴らしいものはないと思う。実際こ

人類の避けられぬ宿命

飢饉、疫病そして戦争は人類を最も苦しめてきた問題。 かつて、これらが起こらないように我々は神に祈るしかなかったが現代ではそれらを自らの手でコン トロール できるようになってきた。と思いきや最近はバッタ大発生、やばい 感染症 の再来そして 第三次世界大戦 勃発かというように全てがまた襲いかかろうとしている。   参考: ホモ デウス テク ノロ ジー とサピエンスの未来   明日はちゃんと書きます。    

日常は簡単に崩れるかもしれない

コロナウイルス に関するニュースを見ていると、ふと去年の台風の時近所のスーパーから飲み物と食べ物が姿を消したことを思い出した。 思えばそこから二つのことがわかった。 一つには平常時の物流は絶妙なバランスで保たれており、災害のようなことが起きて人々の気持ちが変われば、たちまち物がなくなる。反対に供給側についても、何らかの理由で売れていたものが全く売れなくなり、とても余るということも考えられる。 コロナウイルス の件でマスクがなくなったのは前者の好例であり、これからこれが食料品で起こると考えると恐怖しかない。 またもう一つには、スーパーから台風の準備として食料品が消えたことは、多くの人が合理的な判断を下せるという証拠であり、また一人ひとりが自分と同程度に理性的であることを示唆している。確かに自らが人々よりも賢いとする根拠はどこにもない。あまりにも多くの人が自分の能力を平均以上だと考えているという極めて悲しい事実からも、自分を凡人だと考える方が妥当だという結論に至る。   ところで、 コロナウイルス に関して、あまりにも悲観的な人々が見受けられるが、あながち間違っていないかもしれない。病院に人々が入れるうちは病人を無理やり生き延びさせる例もあるかもしれないが、病院が定員オーバーになった時、悲惨な状況に陥るのは簡単に予測できる。中国政府は当然、それを予見し病院を増設している。 平常時の需給バランスで成り立っているものが非常時に対応できるはずがない。これは去年の台風の大切な教訓である。あの台風は私の部屋の窓ガラスを持っていったが代わりに良いものを残していった。

チェスを通じて学んだこと

  チェスは現実世界の縮図である。相手がいて、意思決定プロセスがあって実際の行動がある。また完璧な手が存在し、一方でプロでもない限りほとんどの場合はそれとは程遠い選択をしてしまう。 しばしば最善手を繰り出すには全ての可能性を考慮するのが効果的であるがそれも現実世界と合致しているように見える。   普段の生活では自分の行動は自分の考える最善手である。そこに今まで疑いの余地はなかった。一方でチェスのサイトでは自分の動きがどれだけ悪かったかをAIが教えてくれる。完璧だと思った手は実際には理想とは程遠いものである。   チェスをするようになってからは現実世界でも同様に自分の行動が最善からかけ離れているとする方が現実的だと考えるようになった。 この考え方はいわば自らの中に芽生えた批判の目である。   批判されることはしばしば重要な変化を私に与え続けてきた。辛辣な批判は私を大学に送り込み、人格を育んだとも言える。そのような力をある程度内部化できたのだとしたらチェスをやってよかったと思える。

勉強は競争への入口であり地獄の始まり また完璧主義は成長を促すシステムでありながら、理想と現実の狭間で毒をまき散らす

昔、勉強を全くしない時期があった、その時は勉強をしないことへの危機感も罪悪感もなかった。 勉強を始めてからはそれががらりと変わった、勉強を中断すれば罪悪感にかられ心を痛めつけるしそれを止めるには勉強を続けるしかなかった、また勉強自体もある程度の苦痛であった。どこに逃げ場があるのだろうか。   同時にその過程の中で完璧主義も芽生えてしまった。勉強をサボるなど判断を間違えた時には判断を間違えなかった自分の可能性のイメージが脳に広がりまた痛めつけられる。   ところで、友達の中の一人に見たことないくらいに賢い人がいて、しかしながらその人は仕事にありつけていない。社会がその人を活用する場を用意できていないように思える。 同様に、日本で働きたいと考えている外国人を何人も見てきたが、彼らの思いとは裏腹に日本には彼らの能力があるにも関わらず、活躍の場を十分に提供できていないように見受けられる。 一方でそんな場所を提供したいと思っても、私は力及ばずである。